夢は終わらなかった ― 頸髄損傷と戦う ―
夢は「オリンピック」と呼ばれていた
卒業文集、将来の夢は、「体操でオリンピック」と書いた。
やがてその夢は、サーカスという別の舞台に変わった。夢をあきらめたのではない。競技場から舞台へ、メダルから喝采に、夢のカタチを変えただけだった。
オリンピックの床も、サーカスの舞台も、荒武さんにとっては同じ場所だったのかもしれない。
自分の身体を使って、宙に挑むこと。人の目の前で、自分の力を表現すること。
夢は、別の名前を持ちはじめる。
一瞬で奪われる
2015年4月、新人サーカス団員として入団した。最初は雑用の仕事をしながら、一日でも早く公演の舞台に立てるように技を磨いた。得意技は、体操経験を活かしたバク転や宙返りなどのアクロバット演技だ。
2015年8月には、オープニングショーのレギュラーとして、待望の舞台出演を果たした。サーカスは日本中を公演でまわる。行く先々での仲間たちとの観光、サーカス団員たちとの恵まれた人間関係。不満などどこにもない、まさに順風満帆でこれからだった。

サーカス団員と荒武さん
2016年1月、荒武さんは公演の演技中、事故で障害を負う。
頸髄損傷(けいずいそんしょう)だ。事故直後は、何が起きたのか、何が何だかわからなかった。ようやく事態を理解できたのは、病院のベッドの上だった。一命はとりとめた。
けれど、鎖骨から下の感覚は失われ、夢を追っていた身体は、ベッドの上で止まっていた。
受け入れられるわけがない
「大丈夫さ、身体は動くようになるさ。」
確信ではない、思い込みでもなかった、それは、祈りに近かった。
受傷から1ヶ月ほどが過ぎた頃、主治医から告げられた。
「もう、歩くことはできない」
寝たきりの生活は、起立性低血圧を引き起こし、身体を起こすことも難しい。
車いすに乗ることさえできなかった。
リハビリは、残された身体の使い方を学ぶ時間だ。同時に、それは失われたものを認めていく時間でもあった。
「立ちたい、歩きたい」、受け入れられるわけがない。
リハビリ中、療法士に訴えた。
「立てるようにしてください。」
いつか失われた機能はもどるはず、主治医の言葉とは裏腹に、執着を手放すことはできなかった。
歩けないという現実を受け入れることは、夢に裏切られることのように思えた。
当時の荒武さんを知る看護師は、そんな彼の姿に危うさを感じていたという。
「転んでもいいよ!」
「転んでもいいよ!」
受傷後、誰もくれなかった言葉だ。
リハビリの時だ。療法士から、何かスポーツをやってみたらと薦められた。
薦められるまま、車いすラグビー用車いす、通称ラグ車に乗った。

荒武さん転倒
競技用の車いすの操作は難しくなかった。むしろ軽く動かしやすく自由だった。
転んでもいい、ぶつかってもいい。
動ける!楽しい!!
身体を動かせることが楽しくてしかたがなかった。
夢中でラグ車に乗った。
夢の中にいた頃の自分がもどって来たようだ。

夢は、ラグ車の上に戻ってきた
車いすラグビーにのめり込むのも時間の問題だった。2017年1月、荒武さんは現在所属するウィルチェアーラグビーチーム「BLITZ」に参加する。BLITZは、日本選手権3連覇を達成している強豪チームだ。どうせ入るなら強豪チームに、強い選手に囲まれ、もまれたいという気持ちでBLITZに参加した。
身体を動かせることが、ただただ楽しかった。それが車いすラグビーを始めるきっかけだ。
解き放たれたような気持ちになると荒武さんは語る。
ぶつかってもいい。
転んでもいい。
そこでは、障害が先に来るのではない。あるのはスポーツに向かう真剣さと純粋さだ。
「立てるようにしてください」と訴えていた荒武さんの姿は見当たらない。夢は少しずつ、別のカタチを取りはじめていた。
それは、車いすラグビーだった。





